
ジョージ・ハリスンの「The Beatles」解散までの軌跡
前回は、リンゴ・スターの「The Beatles」解散までと解散後の軌跡について紹介してきました。
今回は、ビートルズのギタリスト「ジョージ・ハリスン」のビートルズの解散までの軌跡を紹介していきます。
ジョージ・ハリスンは、1943年2月24日にイングランド・マージ―サイド州リヴァプールにて誕生しました。
早くからロックンロールに熱中していたジョージが、ギターを手にしたのは1956年頃、彼がまだ13才の時でした。その後、母親にお金を援助してもらい初めてのエレキギターを手に入れたジョージは、「Rebels」という名のスキッフルバンドを結成しました。
そんなある日、同じ学校に通う1年先輩のポール・マッカートニーと出会います。お互いに音楽という共通の趣味があった為、2人が意気投合するのに時間はかかりませんでした。
そんな中、当時ジョン・レノン率いるバンド「クオリーメン」に所属していたポールは、ジョージをクオリーメンのギタリストに迎えるよう、ジョンに推薦しました。ある日、行われた即席オーディションでジョージは当時高難易度と言われていたビル・ジャスティスの「Raunchy」というギターインストゥメンタルを完璧に弾いてみせ、ジョンに認められクオリーメンに加入することになりました。
その後、「クオリーメン」は「ビートルズ」とバンド名を変更し、1961年に「EMI」と契約を交わし、1962年にリンゴ・スターをドラムに迎え入れ、同年『Love Me Do』でメジャーデビューを果たします。
ビートルズのメンバーでは一番年下のジョージは、リードギターとコーラス、ボーカルを担当しました。また、ジョージはエレクトリック12弦ギターを導入するなど、積極的に新しい楽器などにも挑戦し、のちのミュージシャンにも影響を与えています。
ビートルズの中期のころになると、インド音楽とロックの融合を試み、インド楽器であるシタールなどもビートルズの音楽に導入していきました。このことが、のちのラガー・ロックに大きな影響を与えています。ビートルズの後期に入ったころシンセサイザーをいち早く導入したのもジョージでした。
また、作曲家としてのジョージは、「ジョン・レノン」「ポール・マッカトニー」という2人の天才の狭間で、初期の頃は強いコンプレックスを抱いていたと言われています。
しかし、次第にジョージの作曲家としての非凡な才能が開花していくことになります。ビートルズの7thアルバムとなった『Revolver』では、ジョージ作『Taxman』がオープニング曲を飾り、『Love You To』と『I Want To Tell You』の3曲が収録されました。
その後も10thアルバム『The BEATLES』に収録された『White My Guitar Gently Weeps』をはじめ、12thアルバム『Abbey Road』に収録された『Something』『Here Comes the Sun』など、多数の名曲を世に送り出しました。
また、ジョージはエリック・クラプトンをはじめ、ボブ・ディランやビリー・プレストンなど、ビートルズのメンバーの中で外部ミュージシャンとの交流が一番盛んだったことも有名で、そんなところからも彼の人物像が伺えます。
そんなジョージですが、ビートルズの中での不遇さからソロ活動への志向をメンバー内で一番はじめに抱くようになり、それが解散の原因のひとつになったとも言われています。
そんな中、1970年4月10日、ポール・マッカートニーがビートルズからの脱退を発表。事実上、ここでビートルズの歴史は幕を降ろしました。
次回は、「ジョージ・ハリスン「The Beatles」解散後の軌跡」をお贈りします。
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呉東和虎(ごとう かずとら) プロフィール
1972年愛知県生まれのフリーライター。中学生のころからの35年以上、毎日「音楽」を聴いてきました。音楽は生活の一部であり、聴いてきた音楽・読んできた本・見てきた映画で、その人の半分は形成されていくものだと感じています。音楽は「ロック」好き、自らギター・三線を弾きます。
ライターとして、音楽・バイク・車・ファッション・アニメなどの情報をお伝えしています。私の記事を読んでいただいた人に、何らかのプラスになる情報を提供できるように執筆していきます。
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